アドラー心理学における楽観主義
アドラーは楽天主義者ではない。
楽天主義者は、悪いことは起こらない、何とか「なる」と考え、自分で何をどの程度までできるかという見極めもせず何もしない。
常に楽天的な人は悲観主義者である。
根拠もない自信を根底から覆すようなことが起これば、たちまち悲観主義者になる。
そしてすべてに絶望する。
他方、勇気ある楽観主義者は、何とか「する」。
無論、すべてが解決できるわけではないが、それにもかかわらず、何もしないのではなく、できることをするのである。
(アドラー自身は誰でも何でも成し遂げることができる、といっている)
アウシュビッツの収容所では、こんな話が広まっていたそうです。
二匹の蛙がミルク壺の上で遊んでいた。
ところが二匹とも壺の中に落ちてしまった。
一匹の悲観主義の蛙は、どうせ助からないと思って何もしないで、そのまま溺れてしまった。
もう一匹の蛙は、どうなるかわからないけれど、とにかく自分にできることをやろうと思って足を動かしてみたり必死でもがいていた。
そうしたら、いつの間にかミルクがチーズになっていた。
そこで、その蛙はピョンと壷から飛び出して、溺れずにすんだという話しです。
収容所からガス室に送られる前に精神的にまいって死んでしまった人も少なくありません。
そういうところでも「今ここ」で自分ができることをやろうと思った人は、ガス室に送られない限り生き延びているのです。
そういった自分で何とかしなければならない厳しさはあるけれど、どんなに極限状況に陥っても自分自身で幸福になることができるということです。
要するに、何ものも支配しないけれど、何ものにも支配されない、責任もつきまとうけれども自由である、それが大事だと思うのです。
既成概念を打ち破って生きていくためには、自分自身で引き受けなければならない責任も伴ってくるわけで、幸福と自由と責任はセットになっていると思っておく必要があります。
「人生はずっと続く」という既成概念もなかなか破ることのできないものです。
よく、世間では「人生の折り返し点を過ぎて……」と聞く機会があります。
しかし、誰の人生も75年か80年かあると思って、その半分を過ぎてしまったと思っているわけです。
しかし、本当は明日があるかどうかさえ誰にもわからない。
大切なのは、「今この瞬間」に強い光を当てることです。
ステージに立ってスポットライトを浴びると、客席も見えなくなりますが、そういう強い光を現在の自分に当てて、「明日はないもの」と思えるくらいの生き方を選んでいくしかないだろうと思います。
そうやって、今日一日を生き切る。
そうやって、「今ここ」の幸福を見つけていけば、それが一つの人生になっていくのです。
今自分の人生がどこにあるのか、折り返し点を過ぎたくらいか、そうやって生きていくのは「終点」に達することを目的とした生き方です。
しかも、効率よく終点を目指そうとしているようなものです。
しかし、「善く生きる」ということはそういうことではありません。
今日一日を生き切らず不完全燃焼しているから「道半ば」だと思ってしまうのです。
人間にとって、「今」あるのは過去でも未来でもなく「今ここ」だけです。
だから、人生は長さではなく生き方の質の問題です。深刻に生きる必要はありません。
ただ、精一杯生きることです。
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